医療活動と消費者と──
    丸尾夫妻の軌跡

 美津穂先生が医師であったことは、教会の働きを大きく特徴づける要素であったと思います。魂の救済を求めて教会にきている人々の、「魂を」ではなく「肉体を」蝕む食品添加物に着目したのが消費者運動の始まりでした。患者の中に私の娘もおり、アトピーに悩んでいました。アトピーと合成洗剤との関係にもいち早く目をつけたのは、じつは俊介先生であったように記憶しています。外出には水筒を持ち歩いて、ジュースは飲まないようにしようということと、プラスティックを避けるため、アルミの水筒を共同購入する、教会での種々の集まりでインスタントラーメンを食べることがあったので、添加物の心配の少ない生協の品を用意しておく、合成洗剤をやめて石けんを使うようにする、食器は安全な陶器を取り揃えたり、天然木の箸を揃えておく、といった実践的な活動がきめ細かく行われました。
 また、消費者グループの料理研究会が集会室で行われましたが、こちらは美津穂先生が科学的な目で指導をしてくださいました。安全な飼料で育った鶏肉の共同購入をするにあたり、堅い肉質なので、圧力釜を使った料理をしました。この時には、圧力釜を何種類か揃えて使い勝手を比べてから共同購入したり、ドーナツ作りでは、卵や重曹の泡を閉じこめる小麦粉の働きを教わり、添加物の入ったベーキングパウダーを使わなくてもおいしくできることを学んだり、すべてが科学的なので、大変勉強になりました。
 こうした会で学んだことは、後には私たちの手で発行することもありましたが、俊介先生がよくニュースとして記録をつくってくださり、地域の消費者意識を大いに鼓舞させました。
 ご夫妻は精力的に学習会や講演会に出かけ、社会の問題を、教会に足を運ぶ人々に投げかけました。後進国への粉ミルク販売の問題を取り上げた「粉ミルク問題を考える会」のお世話をなさったり、三里塚闘争も支援し、農産物の共同購入にも力を尽くしました。また、日本消費者連盟発足に当たり、お二人で協力なさいましたが、美津穂先生は理事を務めたり、「食べもの通信」の理事としても働かれました。丸木美術館との関係もおありになったようですが、一番大きな働きはなんと言っても愛農消費者の会の発足です。愛農生産者組合も 発足し、安全な食べ物を生産しようという人と安全な食べ物を食べたいという人とが出会い、「顔と顔の見える運動」のはしりとなりました。俊介先生は常に運動の理論的支柱としてリードしてこられました。
 私自身は、ポピュラー音楽の雑誌の編集が仕事でしたが、社会と音楽との関係を論じるきっかけとなった印象深い作業は、教会で取り組んだ羽仁五郎著「都市の論理」の学習会でした。この学習のあと三橋一夫さんに「都市の論理とフォークソング」という原稿を依頼し、思い出深い仕事をすることができました。
 このことがご縁で、後に松田智雄著「音楽と市民革命」をご紹介いただきました。日本では、西洋音楽を単に美的価値として評価しているように思われます。しかし、この書物に表されたものは、封建社会から市民社会への道程の中で生み出された人間謳歌・自然謳歌を表した芸術による連帯感、宗教改革と神学、音楽の創造に関わる「市民共同体」という、まことに興味深いものでした。
 俊介先生は、こうした面でも意を用いてくださったのでした。
 もう一つ忘れられないのは、原発反対の電気料金不払い運動です。電気を止められる寸前まで払わずに、資料を請求してから、話合いをするということを繰り返していました。集金に見える方は役職の方で、クリスチャンでした。とても礼儀正しい方で、声を荒げることなく、粘り強い話し合いを続けていたようでした。
 実は私も不払いをだいぶ長いこと実践していました。天然ガス切り替えのズサンさによる事故に抗議して、ガス料金も不払いをしていました。ガスを止められた同じ時期に、とうとう、電気も止められてしまいました。寒い冬の日でした。庭にかまどをしつらえて食事のしたくをしたり、洗濯は手洗いでがんばりました。娘たちは不便な生活を結構面白がってくれたので、助かりました。
 そしてある日、とうとう裁判所の方が来て、差し押さえてあったピアノやステレオなどを競売することになりました。その日、俊介先生はいよいよとなったら落札しようと、親戚というふれこみでかけつけてくださいました。偶然訪ねて来た私の母も同席することになって、私はハラハラしていたんですが、一件落着して皆さんが帰ったあと「牧師先生はなかなかいいことをおっしゃって いた。」と肯定的な発言が母の口から出て、ホッとしました。この時私は、競売に参加しようとかけつけたと思われる、外にいる怪しげな男たちに気を取られていて、先生と執行官が話した内容は後に聞いたんですが、先生はその日の係争の意味を知ってて来たのか質問したのだそうです。執行官はただ命令に忠実なだけで、その意味を考えようとはしなかったといいます。
先生は「自分もかつて、命令に忠実に戦争に行ったけれど、命令に従うだけというのは恐ろしいことだ。後に問題だと気づいた。命令されても、その意味を考えるべきではないか」と問題を投げかけたのでした。
 結局、競売することは本意ではない、電気料金を払ってくれればいい、ということになりました。少しは困らせてやろうと一円玉ばかりで用意した料金を出したところ、サッと計量器を取り出しましたので、「準備がいいですね」と冷やかしたところ、「最近こういう払い方をする方がいるんでね」とすまして言いました。
 こんな調子ですから、仕事と消費者運動と教会のことが渾然一体となってしまって、礼拝のあとも、たいていは牧師館に上がりこんでいました。美津穂先生からお薬をいただきながら、健康相談してしまったり、昼食をご馳走になったりしながら、その食材について、誰それさんの農産物だとかいったことが話題になり、運動の様々な情報交換もし、夫のグチまで、言いたい放題の時間を過ごさせていただきました。
 今、おとなも子どもも「居場所」があるのないのと話題になっていますが、考えてみれば、教会は信仰の拠点であるだけでなく、運動の拠点となっていて、消費者としての居場所でもあったと言えます。そして、私個人にとってもこよなき居場所であったんだと、改めて感謝の思いでいっぱいです。

「枝」下落合教会創立50周年特別号(2002年3月3日発行)所収

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