虚しい言葉のひとつ「テロに屈せず」
2004年5月10日 丸尾俊介

 9・11の「同時多発テロ」直後、米国大統領ブッシュは「これは戦争だ」と言 った。それを根拠にしきっかけとし、アフガニスタン、イラクへと米国の攻撃 が拡大していった。その経過を考えると、テロは国家と直接関係ないといいつ つ、テロを防ぐためと称して国家単位の戦争にいつしか深入りしていったよう に思える。そして、ある国をテロ国家だと勝手に決めてしまう米国の意向にし たがって、何となく「テロ国家」なるものがいくつも存在するような錯覚に世 界中が陥ったが、日本人の多くは最もその言葉を無批判に受け容れてしまった ようだ。そしてますます、テロを生み出す原因や経過また歴史の積み重ね、さ らに人間とその行為の不完全さ・未熟さに思いをはせることもなく、「テロ」 といわれる実体のはっきりしないイメージが定着してしまったように思う。も う一度頭を冷やしてテロとは何かを考えなければならぬ時期であろう。
 テロは昔日本で「アカ」と、特定の人を排除していたニュアンスに似て、極 悪非道にして人間性に欠けた奴ら、世から抹殺してもよい人物や行為との考え が強い。しかし極めて抽象的概念のような一面もあって、事実何がテロだかア カだか判定するのは時の政治的権力の利害や気分に由来することが多い。
 例えば、伊藤博文の殺害者安重根は、日本の表向きの歴史ではテロリストと されるが、朝鮮の人たちにとっては義人とされる。現在イラクに駐留するアメ リカ兵は、その不当性に抵抗しているイラク市民からはテロリストとみられる だろう。
 さらに厄介なのは、他人をテロリストとみれば、自らは正義の守り手だと考 えてしまう狂信的側面を伴う先入観がいつしか生まれ、正義の守り手である自 分が、異なった行為と違った価値観を持つものを不正義な奴らと判定し、彼ら の生活や生存さえ奪うということさえしてしまう。こういう現状では、「正義 」とか「不正義」という言葉の使いようにも格段の注意をはらわねばならない。
 にもかかわらず、いったん相手をテロリストとし、その行為をテロと宣伝す れば、相手が誰であれ、その人たちが何故そこまでせねばならなかったかなど 疑問に思うこともなくただ殲滅の対象、悪魔の手先と思い込んでしまう。こう して自分が誰をどう殺したとしても、それは正当な行為、正義の実現とされ、 時にはそのことで尊敬され、表彰されることすらある。
 実は人間だれしも、どこの国に属していても欠けもあり過ちも犯す。また欲 もあり野蛮さも持ち合わせる。しかしまた愛も情けも優しさも持っている。そ して多くの人は各国の善良な市民であり、家庭ではやさしい父でもある。しか しいったんテロ攻撃のための国家の手先として戦いに参加したとき、他人を傷 つけ殺すことに何の痛みも感じなくなり、かえって自ら英雄気分になることさ えおこる。それゆえ、起こっている事件を「テロ」と認定することは実に恐ろ しいことでもある。「テロ」はそういう恐ろしい悪魔的働きをもつ。従って国 家が何かを「テロ」だと言及したなら、すでにその時点で人間としての理性、 国家としての良識を失いかけているといってよい。すでにその段階で、人も国 家も「テロ」の力に屈服している。
 ところがどこかの国の偉い人は、折あらば「テロに屈せず」と威張っている。 しかしそれは、テロを生み出す真の原因にまで思いを深めるという尊く必須の 作業を放棄し、ただ、より強力な力のみがすべてを解決するという誤った確信 に陥っているということを示しているだけのこと。その意味で、自らがすでに テロに屈して理性も知性も失い、現行テロ以上の暴力をひたすら望み、それに よりすがっている醜い姿に成り下がっていることの証にすぎない。そういう一 見勇ましそうな言葉で自己正当化の叫びをあげ、あえて弱い自分をカムフラー ジュしている日本の姿は情けないというほかはない。
 そしてまた世の悪について自ら何の責任も感じていない人々が、そういう言 葉に一瞬不安を忘れ、過ちへ加担している自らの至らなさに不感症となる。
 現在「テロ」という言葉の魔性に囚われ、自衛隊をイラクから呼び戻す機会 を失いつつあり、結局後世に大きな負の遺産を残すことになろう。しかし「テ ロに屈せず」等という物言いをする人に対し、一見自信有りげな勇ましい頼り がいのある、リーダーシップをもつ人として依存していく人も案外多い。日本 人のなかにあるそういう危険な傾向に日本人自身があまり気づいていないよう だ。だからこそ「テロに屈せず」と虚しい言葉を繰り返す政府への支持率も一 向に下落しない。そんなところに、自主性の欠如という底深い日本人としての 問題と課題が在るといってよいだろう。

BACK