歴史の底を貫く真理〜復活の喜び〜
説教 コリントの信徒への手紙 一 15:1〜11
2004年4月11日(イースター)丸尾俊介

 一昨日、イラクでボランティア活動をしていた日本人男性ふたり女性ひとり が人質となり「自衛隊をイラクから撤退させよ、さもなくば3人を殺害する、 猶予は3日」という、アルジャジーラの報道をめぐり、日本だけでなく世界中 が注目し動揺しているように感じられる。こんな田舎に居る私のところにも、 メールなどを通して救出運動支援や署名活動などへの依頼が何通か入った。民間 レベルでも大きなうねりが世界を駆けめぐっているらしい。一瞬を争って対応 を迫られているこのとき、まるで何もないかのように、イースターの礼拝や祝 会をしていて良いのかといった素朴な疑問の声も伝わってきた。時代を真摯に受 け止めて生きようとするならそういう思いが沸き起こるのも当然であろう。
 恐らくイエスが処刑されたときの弟子達の動揺や心情も、それに似た危機感 ・無力感・切迫感に満ちていただろう。またイエスの周辺に居た人々の中にも、 謎のような成り行きに迷う人たちが居たことだろう。その人たちが後に「イエス は甦った」と証言し、その「主の現れ」を体験し、新しい人生を歩み始めた事実 から教会が始まり、その経過の中で聖書も生まれた。不思議としか言いようもな いが、それこそが歴史的事実であった。
 私たちはまず、人質事件を起こしてしまった時代と人類の愚かさ、そのよう な行為にまで至らせた私達人間の罪を率直に神に詫び、にもかかわらず人とし ての営みを赦されている現実を受容せずにおれない。そしてさらに、こんなとこ ろにも私達が新しくなれる秘密が宿されているのではないかと感じ取ることが できる。そのような思いの中で、復活の事実を独自の手法で描くパウロの手紙の 一節を学んでみよう。
 死んだイエスが「復活した」と聞けば、それは超能力者のしるしだとか、特に 精神的な特殊な才能を持つ人の幻視体験のようなもの、また新興宗教がよくや る奇蹟の宣伝ではないかなどと考える人もあろう。世の中には残念ながらそういう 例も多い。
 しかしこの個所から注意して読み取りたいことを考えてみよう。まず、こうい う伝承は一人や二人また少数特殊集団の作り話、あるいは信仰深い聖人だけが 語る話ではなく、ましてやパウロの作り話でもなく、「私が伝えていることは、 わたしが受け継がれ、多くの人・長いときを経て伝えられていること」だという 点に注目したい。つまり教会と言う小さな集団だけが信じていたことではないし、 昔の無知な時代の考えでもない、もっと一般的・普遍的なことだというのだ。そ して何よりもそれは紀元前7〜8世紀頃にすでに語られていた預言者の言葉と も符合する。つまり今起こっていることは、過去から現在へ、さらに未来へと連 なっていく歴史の必然的展開だというのだ。それは例えばイザヤ書53章(前5 〜6世紀、混乱した世相の中で神の審判と同時に救いを語った)にある苦難の僕 の歌、また前8世紀頃「苦難の後三日目に神は立ち上がらせてくださる」と説い たホセア6:1〜12などに、すでに書かれていた。恐らくそんな言葉を預言 者から聞いていた時代の人々はその意味を理解できなかっただろう。しかしイエ スの死後、旧約聖書に書かれた古い語句を読んで「ああ、これはイエスによっ て今実現していることではないか」と気付いた。実はこの世を貫く真理は一定 の歴史を経て人間に分かるようになる事が多い。起こっている事実の意味は時 々の人には謎だらけだが、ずっと長い視野で広く考え対処しているといつしかそ こに隠された意味がわかり、謎がとけてくるという一面もある。そのことに気付 き、そこに喜びを感じつつ日常を過ごしていると、いつしか自分も世の中もす っかり変わって新しくなる、復活信仰とはそういうことが起こっているとの告 白が積み重なって生まれたものであろう。
 「死んだイエスが私のところに現れた」、それは始め弟子達それぞれ個人の経 験であった。従ってある時は自分の思い込みかもしれないとの迷いもあっただろ う。しかし折りにふれて何人かが集まると、それは単に自分ひとりの経験ではな いと分かってきた。それは他の人も同じような体験の告白をするからである。こ うして復活信仰は根強く広がっていったものと思う。
 そのような経験は、5節以下にあるように、ケファにも、12人の弟子にも、ま た教会の集まりなどに連なる500人以上の人にも、またその後の教会の働きに命 をかけていたヤコブや使徒達にも、キリスト者を迫害することに使命を感じて いた私パウロにも、共通だと語っている。復活経験は、その意味で人間の知恵や 行為や技術や修行によって生まれるものではなく、全く神の一方的な業として現 実に働く、言い換えれば「恵み」として私と共にあるのだと告白する。
 だからこそ復活は誰でも経験することができる。もちろん「復活」という言葉 は、旧約聖書的伝統の中で生まれ、長い間キリスト者が育て伝えた独自の内容 をもってはいる。しかし同時に、同じ言葉でも個々人により時代により異なった 多様な内実も持っているだろう。
この手紙を書いたパウロは、それを「福音=良い知らせ」と言い、それをあな たがたも「受け容れ、生活の拠り所にしているのですね」と、喜んでいる(1節)。
 聖書の時代と全く違うときを私たちは生きているが、こういう歴史の底を貫く 真理に常に目を開く姿勢を持って進みたいと思う。日々の暮らしを、また起こり つつある事件を、さらに人の営みを超えているかのような自然の営みを、それ らの背後にあるだろう秘義とも言える神の働きに少しでも目を開いて歩んでい くことの大切さを改めて実感する。それがイースターの内容であり、喜びでもあ る。

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