説教「手段と目的の混同」
2004年5月16日 丸尾俊介

  聖書  ヨハネによる福音書 5章1節〜9節 および17節
 1 この後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。  2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があ った。そこには五つの廊があった。3 その廊のなかには、病人、盲人、足なえ、や せ衰えた者などが、大ぜい体を横たえていた。[彼らは水の動くのを待っていた のである。 4 それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすこと があるが、水が動いた時真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、癒さ れたからである。] 5 さて、そこに38年のあいだ、病気に悩んでいる人があっ た。 6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっているの を知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。 7  この病人はイエスに 答えた、「主よ、水が動くときに、わたしを池の中に入れてくれる人がいません 。わたしが入りかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。 8  イエスは 彼に言われた、「起きて、あなたの床をとりあげ、そして歩きなさい」。 9  すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いていった。 
 17 イエスは言われた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたし も働くのである」

 これは、かなり重い病いを持ち長く苦しんでいた一人の人が、イエスによっ て心身ともに健全な人間に生まれ変わったという事実が元になり、後々まで広 く語り伝えられるうちにできあがった物語であろう。時は一世紀の前半、ちょ うど民衆にとっては暗さの中でも少しは楽しい気分にひたれる祭りのとき、多 くの人がエルサレムに集り、イエスも弟子たちとともにその場にいたらしい。 しかしここに主人公として描かれる人は38年も病気で苦しんでいた人、おそ らく本人も家族もあらゆる手立てを尽くして治療の努力はしていたのだろうが、 それでもなお治らないとても困難な病気であったと思われる。当時そのような 人が最後の手段であるかのように一縷の望みを托して集まる場が神殿の回廊で あったのだろう。その前に池があり、時折天使がそこに下ってきて波がたつ、 そのとき真っ先に池に飛び込んだ人は病気が治るという、半ば伝説めいてはい るがそれが素朴な慣習と信仰でもあった。当然そこには眼の見えぬ人、足の不 自由な人、体に麻痺のある人たちがおおぜい集まり、水の動くのを真剣に見つ めつつ待っていた。当時不治の病といえば本人または先祖の何らかの罪と深く かかわるのではないかという一般的常識があった。従って病人といっても、病 院や健康保険を使い、社会保障やボランティア活動がほんの少しでも望める今 日とは違って、それは宗教的汚れとか罪の積み重ねの結果とも考えられ、そう いう重荷に縛られて、一個人としても家族としても社会の一員としても認めら れない悲惨な一面があった。つまり安定した生活など考えられもせず、わずか の望みさえ断たれてただ放置されているのが当たり前といった状況、当然、病 人自身に希望や喜びなどあろうはずもない。
 6節以下をみるとそのような人の一人にイエスが問い掛けたことがわかる。 まずイエスは「よくなりたいのか?」と尋ねた。病人はイエスの語りかけに感 謝しつつも(「主よ」と返事していることからもそういう思いは伝わる)、「 水がたとえ動いても私を水の中に入れてくれる人がいません。多少でも力があ りコネがある人が先に入ってしまうのです」と、世の冷淡さへの不平もこめて 正直に語る。ここでイエスの問いと病人の答えが全くすれ違っていることに注 意したい。イエスは儀礼的にあるいは表向きの同情だけでこう聞いたのではな いだろう。なによりも本人の個としての自覚を引き出そうとしているに違いな い。このときこの病人を完全に支配していたのは、誰も助けてくれる人がない という被害者意識、その背景にはともかく誰よりも早く水の中に入ることが私 の一番の目的だというゆがんだ狂信的妄想があったといってよい。そうなるに は長い長い病いの苦しい寂しい日々の積み重ね、社会全体が弱い人とともに生 きようとする基本的な優しさをなくしていたこと、またそれを可能にするよう な世間的常識を育てようともせず、常に勝者・強者によって、世が支配されて きたというこの世の実態があったろう。だからこの人がそう考えたとしても当 然ではあったのだ。
 しかしイエスはそういう思いや慣習に縛られている人と世こそ問題だと見ぬ いていた。イエスは個人個人の存在も世の歴史も何らか神の意志や支配の中に あることを固く信じ、その一点から物事を考え、語りかけ、行いを選んだ。だか ら38年間病人であったこの人に、今大切で必要なことはなにか、そのことも 考えイエスはわざわざ「よくなりたいのか?」とあえて聞いた。つまりこの人 に今最も大切なことは「まっさきに水に入らねばならぬ」といった根拠のあい まいな狂信的姿勢から解放されること、「誰も助けてくれない」といった依存 意識、被害者妄想から自由になること、「何らかのこの世的強さこそがすべて を解決に導く」といった誤った考えを乗り越えることである。言い換えればた とえ人間的なマイナスを背負っていても、一人の人間として自分の意志や力を 超えた働きによってこの世に誕生し生存しているという事実、そして今もなお 世間的価値観からいえば劣っている点があったとしても一つの固有の存在とし て生きていることが許されているという事実、それを自らの考えとして受け容 れることがとても大切だというのだ。そういう自覚の誕生をイエスは求めてい る。それは自分の思想を確かなものにするとか悟りを開くとかいうこととはま た違うだろう。むしろ、自分の意志や力によって自分の生命や存在があるので はなく、全く別の確かな働きによってそれが可能になっている事実、多少宗教 的な言い方をすれば、自分のようなものも人間を超えた働きの元にあるという 事実に、気付かせようとしているのであろう。おそらくそれは一朝一夕にできる ような安易なことではあるまい。ここでもイエスはこの病人とかなりの時間と 労力をかけて交わりつつ自然に語り伝えたことだと思う。
 またここで特に注目したいのは、治病とか水に入るとか助け手を探すといった ことは多くの手段の一つであって、決して人生究極の目的ではないということ、 神に生かされているとしか言いようのない事実に直面して、そのような人を超 えた意志と働きに答えつつ、できるだけそれからはずれないように生きる、こ れこそが目的である。しかしこの病人に限らず、私たちもいつしか単なる手段 を目的化してしまっている。そしてそれこそが究極の解決だと思い込んでいる ことが多く、日常生活でもそんな混同をいくらでも重ねている。だからこそな にが目標であるかという原点に立ち返って自らの考えや行くべき道を選択して いくことが必要であろう。
 アメリカがイラクへの侵略を始めて一年以上経った。アメリカは、自分の力 と思想を過信し、進みだした道から抜けられず、泥沼に足を突っ込んでしまっ たようである。日本はそのアメリカに追随する以外に自ら考え行動する自主性を もたぬため、アメリカと共に歴史を誤らせる危険な道に踏み込んでいるのかも しれない。首相をはじめえらい人たちは「テロに屈せず」などと勇ましいこと を言っているがそれは強さへの信仰を捨てきれないばかりか、いつしか本来の 目的である「異なったものとの共存への努力」の道を大きく踏み外し、相手を強い 力でねじふせ、当面の争いに勝つことが目的になってしまい、しかもそのことに 振り回されている自らに気付き反省することさえできなくなっている姿を示し ているように思う。このまま突き進んでゆくと日米共に後世厳しい裁きを受け る事は避けられないであろう。力の強い国家も、それに対抗する勢力も、往々に して手段をいつしか目的視し、ますます誤った道に入り込んでいくのではない かと恐れる。
 以上のように考えてくると8節以下の「起き上がりなさい」というイエスの 言葉の重さがよくわかって来る。実はこの病人は池に真っ先に入る必要などな かったのだ。他の人を押しのけて勝つ必要もない。それよりも自分が根源的に、 あやふやな人間の考えや行為をはるかに超えた神の働きのもとに在ると言う事 実に気付きさえすればよかった。確かに自分は体力も弱く、考えも浅く、経験も 乏しいし、他の人と比べても悲しいことばかりだが、それでも自分には固有の命 がある。そして何よりもその人その人固有の手もあリ足もある、その事に気づき、 それを自覚し、働かせればよかったのだ。
 だからこそイエスはここで「それならオレが真っ先に水の中に入れてあげよ う」とか、「オマエを水に入れるためのしっかりした組織を作ろう」とも言わ なかった。「この世は不平等だからまずはこの世の改革を」とも考えなかった。
 以上のようにこの個所を読んでくると、聖書は殊更に奇蹟ができるイエスを 宣伝してキリスト教をひろめようなどという意図で書かれてはいないことが分 かるだろう。キリストには超人的力が宿るのだから、そのキリストだけを拝み、 敬虔な宗教生活を続けていけばよいとも勧めてはいない。17節のイエスの言 葉は、以上の事実のまとめのようにして伝えられたのだろう。私たちの生に何か 少しでも意味があるとすればそれは神が私を通してなにかの働きをしてくださ っていると言うことだろう。神が働くから人の働きなど無意味だと言うのでもな い。人の働きはすべて神の働きへの応答、反響、こだまですよとの先輩たちの信 仰告白だといっても良い。「今」という一語が入っていることも大事だ。決して聖 書の話は、単なる昔話ではない。神の働きは今も私達の足元で日夜続いている ということを、聖書は古い表現を使いながらも何とかして伝えようとしている のだ。

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