説教  「今日」「この家」に、救いが
2004年7月18日 丸尾俊介

  聖書  ルカによる福音書19章1節〜10節
1 イエスは、エリコに入り、町を通っておられた。 2 そこにザアカイと いう人がいた。この人は、徴税人の頭で、金持であった。3 イエスがどんな 人か見ようとしたが、背が低かったので群衆にさえぎられてみることができな かった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りしイチジク桑の木に 上った。そこを通りすぎようとしておられたからである。 5 イエスはその 場所にくると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。 今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 6 ザアカイは急いで降りてきて、 喜んでイエスを迎えた。 7 これを見た人たちはみんな呟いた。「あの人は 罪深い男のところに行って宿をとった」。 8 しかし、ザアカイは立ちあが って主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また誰か から何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」 9 イエスは 言われた。「今日、救いが、この家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだ から。 10 人の子は、失われたものを探して救うためにきたのである。」

 この個所には、イエスがエリコの町を通っておられたときに起こった一つの 事件が記されている。イエスを見ようとしたザアカイという人は、背が低いし 群衆も多くて、イエスがよく見えないので、ちょっと先回りして木に上り、上 からイエスを見ようとしていた。通りかかったイエスはとつぜん上を見上げ「 ザアカイよ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」 と呼びかけた。ザアカイは、急いで木から降り、喜んでイエスを自宅に迎えた。 それを見ていたたくさんの人たちが、「イエスは、あんな罪深い男の家に泊ま った」と非難した。しかし、ザアカイは、そのことをきっかけにして、自分の 過去の行き過ぎた点を反省し、具体的に、当時の社会的弱者と呼ばれる人々に お金を返します、とイエスに決意を告げた。
 その時イエスは、「今日、救いが、この家を訪れた。」と言われた。実は、 ザアカイは徴税人だった。それは当時の支配者ローマ帝国に納める税金の徴収 を最も出先で請け負っている人であった。政治的支配者はうまく民衆を動かす ことが多い。一人一人から直接税を取り立てたりしたら、民衆の反感をかう。 だから、その仕事を住民の誰かに請け負わせる。ザアカイが、徴税人であった のは、世襲によるのか、または経営の才能があったためか分からないが、当然 自分の懐に入る分を上乗せして民衆から取り立てるので、その仕事をする人に は金持が多い。しかも人々から嫌われ、一般に「罪人」扱いされていたらしい。 しかし、ザアカイの背後には巨大な権力があるので民衆も逆らえず、人々は徴 税人に反感を持ち、差別視していた。民衆を対立させて自らの安泰を図るとい うのは、強大な侵略者・支配者のよくやる政治的手法だが、民衆もまたそうい う世の趨勢や時流に乗って、特定の誰かを穢れたやつ・悪人・罪人などと決め つけ、結束するどころか、差別や対立を起こすことも多い。私たちの日本でも、こういう傾向が強い。かっては、「非国民」などというレッテルを張って、国家にとって都合の悪い人たちを攻撃排除させるような雰囲気があった。今はそんなことはなくなったと思っていたら、先日、イラクで人質になった3人に対し、ある大臣が、「彼らは、国家に反逆する反日分子」などと公言した。恐ろしいことだが、なお今も日本はそんな状況にあり、そういう声に押されて、3人には自己責任があるとか、救出費用を支払えといった漠とした人々の雰囲気が支配し、留守宅には、非難の電話がたくさんかかるという状況さえあったという。 一方そういう世相の中では、ザアカイは世間から孤立し一人さびしく過ごす他 はないし、背後の権力をかさに着て、不当な税金を取り立てるという生き方を いつしか当然のように続けてしまうことになる。
 イエスは、金には不自由しなくても、さびしくて人間の温かい交わりを味わ ったこともないザアカイを見ていた。つまり、世の中の大勢に流され、そうい う人に偏見を持ち不信仰な俗人として排除しようとはしなかった。むしろ、そ ういう生活のなかで、民衆と共に生きようなどと全く考えもしなくなっていた ザアカイ、自らを唯一の人格をもった尊い存在だなどとは考えもしない彼に、 直接呼びかけて交わったのだ。イエスは、ザアカイにどれだけ改心の意志があ るかどうか調べたり、俺の弟子になれば、民衆との間をうまく調停してやろう としたのでもない。あるいは、彼の中に、少しでも生活を改めて、世間の一員 として暮らしたいといった可能性を見いだしたのでもない。ただ単純に、率直 にそして無条件に、一人の人間としてのザアカイに呼びかけ、彼の家に泊まっ た。その率直なイエスの言葉と行動に、彼はその時自分にできる事柄を自主的 にとっさに申し出て、今まで不正な取り立てをしていたかもわかりませんから、 その誤りに対してお返しをしたいと言った。これは、律法の規定などを超える 自主的な、イエスの意志と呼びかけへの応答であり、また自分自身の生のあり かたを変革することの喜びを主体的に表明した言葉でもある。
 その事実に対してイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」という。救い とはなにか形にハマった動作ではない。あるいは、一定の修行や善行へのごほ うびでもない。悔い改めとは、人が人としての自覚を新たにすることである。 投げやりやあきらめの状態になりやすい人間が、個としての存在を自覚し、同 時に、他人もまた同じような「個人」であることを知り、共に生きようとの姿 勢を持って具体的に対処していくことである。「訪れた」と訳されている原語 は「生じた」とも直訳される。つまり、人間の行う何らかの行為というより、 人が生まれ、またそれぞれが個性を持つことに象徴されるような、人を超えた 一つの出来事だとの意味が強い。
 そのことに関連して、5節の「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」という用語 にも注目したい。口語訳では「泊まることにしている」、岩波訳では、「泊ま ることになっている」とある。この短い文の中には、人の意志や行為を超えた、 神の働きとしか言いようのない事実を表す短い一語が付加されている。聖書で はそれが大切な言葉で、単なる人の行いとか運命とかでなく、神様の必然性を 強く表す語である。そういう働きが日常的に行われているときこそ「今日」( 5,9)なのだ。「今日」の重い意味や秘儀を受け止めた語法でもあろう。
 ザアカイの事件は、昔偶然起こったことではない。この話を語り伝えた人々 が、「今日の救い」を「イエスが共にいてくださる」という身近な事実また実 感として持っていたということだろう。そういえばイエスは、私たちと共に在 る、人を超えた働きに、全面的に生の軸足を定め、さらにその時を「今日」と いう言葉で示した。「明日のことを思い煩うな、今日一日の苦労は今日一日で 十分だ」という言葉も、そんな思いと事実が自然に口をついて出た言葉といっ てよいだろう。イエスに続き、その言葉を伝えた人々もまた、単なる昔の回想 として語ったのではなく、イエスの生きてきた「今日」の不思議さを経験しつ つ語り伝えていたのだろう。
 先日テレビで、諏訪中央病院の鎌田実医師の話を聞いた。彼は、チェルノブ イリ原発事故の被害者を救援する運動に、長くかかわってこられた。現地ベラ ルーシに行ったとき、白血病の子供が多くいた。親の一人が直接、日本に連れ ていって治療してくれという。そのことを小児科医師のタチアナさんに話した ら、一人を直接治療するより、わたし達医療機関を支援してほしい、私たちが、 子供の一人一人を治療できるように支えてくれという。彼女は、子供を抱きし めて、「わたしがいるから大丈夫よ」と、子供や親に言っていた。鎌田氏はそ の道筋を外さないよう、以来ずっと支援を続けてきた。やがてタチアナ医師が 乳がんとなり、入退院を繰り返しつつも懸命に治療を続けた。今度は子どもた ちが「わたし達がいるから大丈夫よ」と医師を励ました。それは根拠のない一 時の慰めとも聞こえるが、むしろ人間としての限界を承知しつつも、時々に新 しい力をどこからか得ながら生きていく人としての真の姿また、共生の事実を 表すものに違いない。鎌田氏は、そんな経験を諏訪という地元で活かしつつ病 院の活動を続けているということであった。


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