説教「イエスの語る《終末》」
2004年8月29日 丸尾俊介

  聖書  ルカによる福音書 21章5節〜28節(一部を省略)
 5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している と、イエスは言われた。 6「あなたがたは、これらのものに見とれているが、 一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」。
7 そこで彼らはイエスに尋ねた「先生、ではそのことはいつ起こるのですか。 またそのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」 8 イエスは言われ た「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢現れ、 『私がそれだ』とか『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。  9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがま ず起こるに決まっているが、世の終りはすぐには来ないからである」
 10 そしてさらに言われた「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 11  そして大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著し い徴が天に現れる。 12 しかしこれらのことがすべて起こる前に、人々はあ なたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や 総督の前に引っ張っていく。 13 それはあなたがたにとって証をする機会と なる。 14 だから、前もって弁明の準備をするまいと心に決めなさい。15  どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵をわたしがあなた がたに授けるからである。
 20 エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たらその滅亡が近づいたことを悟り なさい。 21 その時ユダにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。

 20世紀は、人類にとって大きな発展を遂げた時代であったと言って良いだ ろう。確かに人間の知恵と財と技術は驚異的に増大し、その生活は便利になり、ある意味では人間の素晴らしさを実感し楽しんできた世紀であった。もちろん、貧富の格差が大きくなり、強者と弱者の距離がぐんと広がったマイナス面は決して見逃すことができない。21世紀を迎えた私たちは、過去を踏まえてもう少しマシな時代になり楽しく暮らせるのではないかとの楽観的見方が根強い中で出発したはずだった。しかし現在、戦争は続発するだけでなく、人類はかくも残酷であったかと思わせるくらいにますます悲惨さを増大しつつあり、その収拾への希望を持てるような状況ではなくなっている。一方、異常気象とばかりは言えない災害が、人間の自分勝手な生活によって生態系を崩しつつある状況と重なってのうえだろうか、次々と各地に起こっている。 以前、池袋、新宿の繁華街で「悔改めなさい、神の裁きは近いのだから」とい ったスローガンを看板のように持って歩いていた人がいた。また人の少ない田 舎の廃屋かと思われるような土壁にもこの文字が掲げられているのを見ること もある。ある宗教に懲り固まっている人たちの行動ではあろうが、そんな言葉 さえ受け入れてしまいそうな時代状況があり、そう考えてしまうような人間の 内的姿があるといえなくもない。「世の終が近い」とか「神の裁きの日が迫っ ている」などという、あまり根拠のない宣伝にさえ心を惹かれているのが今の 現実だともいえる。つまりそれほどに、個人も世の中も決して満足して毎日を 生きているわけではなく、底深い不安の中にいるということだろう。同時に今 は、そういう状況から抜け出して理想的な生活を送り、安心できる社会を作ろ うとする人々の思いや営みにも、あまり希望が持てなくなっている。なにかし ら得体の知れぬ奇妙な悪魔に振り回されているような妄想らしいものが根強い 時代だと言える。
 もちろんそれを克服しようとするさまざまな働きや、それへと向かう努力や 学問も発達しているだろうが、同時にそんなとき何がしか「宗教らしきもの」 に依存する傾向も根強くある。ある宗派は今こそわれわれの出番だと張りきり、 この世とは異なったイメージの宗教的別世界がわれわれのところにあると宣伝 する。またそのような気分を味わえる空間や時間や組織に一時とはいえ安心を 感じて集まる人も多い。
 私たちもこんな小さい集会をしながら、また僅かとはいえ聖書の言葉に親し み、そこから何かを学ぼうとしているのだが、考えてみると、イエスの生きて いた時代も、イエスの言葉や業や存在の重さを感じ知り言い伝えた時代も、そ れが文章として書かれ読み継がれてきたその後の時代も、いま私たちがそう感 じて生きている「終りが近いかもしれない、悪い時代」と言ってよいような現 実はいくらでもあったのだろう。この聖書の個所にはとくにそのような事象が 次々とまとめて書かれている。しかし私たちの先輩たち、なによりもイエスや その弟子、またその後の教会は、そういう事態をどうとらえ、どう考え、どう 対処したのだろうか。今日の聖句からそんなことを少し学びとってみたい。
 まず5節から6節を見てみよう。当時としては超豪華なエルサレム神殿を見 て、多くの人が「なんとすばらしい!」と感嘆している。建造物としては当時 の庶民の生活感覚とは全く異なる巨大豪壮なものであったらしい。建造するた め現場で働いた人たちの生活はおそらく悲惨なものであっただろうが、巨大権 力者はそんなことを考えもせず、ひたすら自らの権力を形に表したがる。日本 も含めた世界中にはすばらしい建造物があり、中には民族・人類の力の象徴な どと讃えられ、時に「世界遺産」に加えられるものもあろう。しかしそのかげ には酷使され使い捨てにされた多くの人々がいたに違いない。心が痛む。
 しかし多くの人はそういうすばらしいものにあこがれる。そんなものをもつ 民族と国家を誇りにする。ところが、そういう一般的傾向や心情に対して、イ エスもまたその通りだと感心したのだろうか? 6節によると、いかに立派な 神殿も跡形もなく消えてしまうときが来ると、イエスは断言したのだ。これは 単なる感想や見通しではなく、明らかに、権力者の傲慢に対する反抗、世の大 勢にのみこまれている人々への冷たい批判であろう。形あるものはいつしか崩 れる、世は常に変化浮沈を繰り返すといった一般論を超えた厳しい言葉である といってよい。
 ではイエスは単なるにニヒリストだったのだろうか。おそらく人為を超えた、 真実に確かな支配者の働きに信頼していたからこそ、人工的な価値をこのよう に相対化できたのではないだろうか。
 つぎに7節以下を読んでみよう。7節に記されているイエスへの問いには、 本質的な人間存在への疑問、そもそも私は一体何者なのか、どこから来てどこ へ行こうとするのか、といった根源的問いとして出されたものではない。いわ ば、マスコミ的、他人ごとのような姿勢からの問いであろう。イエスはそうい う種類の問いには答えようとしない。
 かえって、世も末だ、終が近いなどと言いふらしている人々の言動に注意し なさいという。私こそ救い主(キリスト)と自称する人、彼こそそれだと誰か をかつぎあげる動きが続出し、世の終りが近いなどと不安を撒き散らす人々が 増えてくるだろう。戦争や暴動を起す人もあり、またそれへの不安も増大する だろう。天災としか言えないような恐ろしい事象も起こるに違いない。権力者 がますます弱者を迫害し差別し攻撃するなどということもあるだろう。そのた めに肉親・家族が分かれ対立し争うといった不幸な出来事もときに起こるだろ う。そのようにイエスは世の中の動きを見つめつつも「そういう動向や考えに ついていくな」(8) 「必死になってそういう動きに抵抗し力をつけて行く よりも、いざという時はどんな反対者も対抗できないような言葉と知恵を授け てくれる方がいらっしゃる」(15) 「自分の髪の毛一本だって決して意味 のないものではない、そういう命(魂)を頂いているから心配せずに過ごして いいのですよ」(18〜19)といわれた。つまり、私たちはそういう根源的 な働きに支えられ、個として生まれ、生き、存在している、そのために特別の 功績を積んだり修行したりする必要さえない命を無条件に与えられていると、 イエスは言っている。こうして、どんな困難にも縛られぬ自由を語り、どんな 巨大な流れにも流されぬ柔軟さをもつことに気づかせ、被害者妄想や自力主義 に固まって報復を企てたり、宗教的奇蹟に頼る必要のない安心を人々に与えた のだ。
  20節以下で注目すべき言葉は、戦争などのとき「山に逃げなさい」(21) と奨めていることである。かつての日本帝国が言ったような、国家・民族の存 亡のときには自分の命など顧みずその戦いに参加せよ、一億一心、天皇の股肱 になることこそ日本人の本領だなどという考えや掛け声とは全く違う。過去の 日本は、そういう日本人になれと洗脳され、教育されたために、いたずらに兵 士も市民も簡単に戦争に加わり死んでいった。その尊い犠牲を活かし、大きな 反省のもとに再出発したことの印として憲法が生まれた。今、その憲法があた かも人間の邪魔者のように扱われ始めている。由々しいことだ。こういうとき 必要なのは、以上のような国家体制にのみ込まれたり流されたりせず、個人個 人がそこから逃げることなのだ。「逃げること」は卑怯でもなんでもない。大 義のないイラク戦争などからはさっさと引き上げることこそ、真理にかなった 道だといってよい。日本にはかつて「良心的戦争拒否者」がいたという。すば らしい先覚者だったと思う。2000年前にすでに「逃げる」ことの積極的意 味合いをイエスは語っていたことに感銘を覚える。
 25節以下は、雷同しやすい人と世の姿や、世の終りという語が現実味を持っ て迫ってくるが、幸いなことに私たちはそういう混乱の中でも、身を正し、落 ち着いて希望の徴を求めることができるのだと、古代的表現ではあるが、語っ ている。「雲に乗って救い主が来る」などというのは、奇跡的現象としてその ままの形で理解する必要はない。それは人為・人力を超えた個の存在、歴史の 進行、生態系の秘義が働いていることを指し示しているのであろう。それらの 真理を、たとえばイエスの生と、その必然的結末としての十字架、それらの究 極的解決を示唆する復活の信仰によっても、聖書は詳しく証言し続けている。

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