説教「信仰と不信仰」
2004年10月31日 丸尾俊介

   聖書   マルコによる福音書 9:14〜29(主題となる24を、特に記す。)
    24 その子の父親は、すぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けく ださい。」

 24節には「信じます。信仰のない私をお助けください」と、イエスに叫ん だ一人の父親の言葉が記されている。通常、信仰と不信仰とは全く反対の事柄 と私たちは解しやすい。ところが、両立しないと思い込んでしまっているこの 二つの事態が、ここでは併存して用いられていることに注目したい。
 信仰といえば、ともすれば、俗人とはあまり関係のない理想的・模範的な人 の姿を思い浮かべる。そして信仰を深めればあまり迷いもないし、しっかりし た人生を歩むことができるよういつしか考えている。その信仰を得るため、善 行や修行が必要であり、教義を深く学び、決められたように儀式をこなしてい けばよいのだろうとも考えている。立派な信仰者とは、一点の曇りもない不動 の信念を持っている人であり、イエスもまたそういう信仰を人々に教え、それ こそが聖書の内容であり、教会の仕事だと考えやすい。
 一方、信仰がないとか不信仰というのは、以上のような姿に欠け、自信もな く、迷いの多い弱い人間を思い浮かべるし、時には信仰を理想的な姿ととらえ るあまり、それへの反撥で、時には軽蔑の思いさえこめて用いることもあるが、 ともかく信仰者を自分とは縁遠い人たちだと考える思いにも連なっているだろ う。
 しかしここに記されている聖書の言葉は、この人が努力し、熟慮し、修行し、 決心し、準備して語った言葉ではなく、イエスから問われて反射的に、つい口 にした叫びであり、ハプニングのようにして出た言葉だと思うので、そんなに 厳密に考えることはないだろう。ただ、信仰と不信仰という両面を常にかかえ ている私たち人間自身の姿を考えると、ここから学べることは多い。
 そしてこの場でイエスがどんな対応をしたかがとても興味深い。イエスは「 では固い信仰を身に付けるよう人生をやり直しなさい」とか、「わたしに任せ なさい、なんとかしてやるよ」といった反応をしてはいない。むしろ、ありの ままに「信じますよ」「でも、考えてみると信仰などと言える強さを持っては いないな」「どう答えたらいいのだろうか」と迷いつつ語ったと思われる父親 を、何の条件もなしに、イエスは受け容れている。だから、信仰とも不信仰と も言えるような両面を持つあやふやな私たちは、それを、払拭せねばならない 弱さや迷いなどととらえず、正直に謙虚に認めたらよいのだ。
 言い換えれば、不信仰などというものはどんな代償を払ってでも取り除かね ばならぬと考えたり、理想的な一面だけ強調して不信仰な面は隠そうとしなく てもよい。実は一見矛盾に満ちたこのような両面を持つ自分に私たちはいつも こだわり、あせっているのだが、そういうありのままの人間を受け容れたイエ スの姿を忘れ、そのことに応答しないことこそが問題なのだろう。
 私たちが、ほかでもないこの日本に、今という時代に、動物でも単なる物で もない人間として、特定の人を親として、個々別々の条件や能力や賜物を持っ て生まれ、かなりの可能性と一定の限界の中に生きているという事実そのもの を見ても、わたしたちが、一見いい加減と見える信仰と不信仰の両面を持って いるということは、根源的な神の働きの現われと言う他はない。そのような事 実に思い煩うことはない。だから何も練り上げた立派な信仰や言行ではなく、 そのままの自分を神の前にさらけ出してよい。  そのことはイエスの語られたという「信じるものには何でもできる」(23)と の言葉の中にヒントが隠されているように思う。通常私たちはこの言葉を『鰯 の頭も信心から』と俗に言われている事柄と同様に受け止めがちである。しか し実は人間の確信とか思い込みの強さを、あるいは何の根拠もない妄信に近い ことを、ここでイエスが言おうとしたのではなく、おそらく信仰と言えるよう なものは不確かな人間の力から生まれるようなものではないと考えているのだ と思う。にもかかわらず、そういう人間に意味のある生が与えられていると言 う事実こそが、信仰の出発点であり、それ故信仰は人間が作るものであるより 以前に、すでに人に用意されている事実だとイエスは語っているのだ。人はそ れに気付き、安心し、そのことを受け容れ、応答しつつ日々を過ごせばよい。 そのとき人はどのような形でか不思議にも新しい道に出会い、時には困難をも 乗り越える前向きの力を感ずることもできる。それ故自ら不信仰ではないかな どと心配することさえ無用だと言ってよい。
 実は、この言葉が語り伝えられたのは、そのようにして人間性を取り戻して いった人々が多くいたという事実の証であり、それが聖書に記されて今日まで 有効なのは、そういう面から自らを正し新しくしていった人々や弟子や教会が 存在し、その面から自戒しまた警告していたことを示す。弟子たちはイエス亡 き後、以前の自分たちが、すでに備えられて、「信仰」の中に置かれていたこ とに気付き、それに目覚め新しい前向きの歩みを始めていったのだろう。
 私たちは、常に生きる力さえない自らに失望し、無力を嘆いたり、逆に自ら 神になったように自信を持ったり張り切ったりもする。教会もまた、時にはあ まりにもこの世に対して、無力だと迷い、何らかのこの世的力に頼り、かえっ て冷静さを失ったり、世から孤立したり、独善的傾向に走ったりしてしまう。
 現在のブッシュ政権が、自らのみを正しいとし、悪を根絶するためと称して とてつもない武力を行使している背景には、そういう考えと政策を授け、支援 するキリスト教原理主義者たちの巨大な力が働いている。ただ「人間の力とし ての信仰」という一面しか見ない人たちと、そのような考えに支配される国家 というものの恐ろしさをいま現実に私たちは見せられている。
 ここではただ、この24節の一句のみを手掛かりに考えてきたが、この句を 含む物語全体の記述の中には、以上考えてきた内実とは矛盾するような言い回 しも出てくる。そのニ三の例にも手短かに触れておきたい。
 例えば、イエスの言われたという次のような言葉、「なんと信仰のない時代 なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか」(19)「信じるものには 何でもできる」(23)を考えてみよう。そこで言われている「信仰」とか「信じ る」という言葉は、何か完璧でしっかりした、簡単に揺らぎそうもない確信と か強さ、つまり私たちが表面的にとらえている型ではなく、まさに信仰と不信 仰をもつ私たちの願いや現状を超えた根源的な神が共にいてくださるという「 事実」そのものがここに働いていることを言い表わしていると言ってよい。そ して、イエスの在世中であろうが、その後のことであろうが、常にそういう働 きの中に私たちはおかれている。
 また、「祈りによらなければ決してできない」(29)という言葉も気になるだ ろう。この際、イエスは熱心で、完璧な祈りをしてこの父親の子を束縛から解 放してはいない。祈りとは、一つの儀式や形式あるいは言葉ではなく、根源的 な神と人との関係を生かすことであろう。
 そして、この子を病から解放する際、イエスはその子の「手をとって起こさ れると、立ち上った」(27)という。神が共に在るということは、上から命令す るとか、外から眺めることではなく、自ら相手の人格へ直接働きかけ、手を触 れるという行為に象徴されるような日常的・具体的な姿勢を言い表している。 「起こされる」という言葉は、時に「甦り」という、意味を持って用いられて もいる。復活とは、単なる外的事象や、根拠や現実味もない空想・妄想・妄信 ではなく、目には見えないこともあり、その瞬間感じ取れなかったとしても、 日常を支える「いのち」の働きそのものを示していると言えるだろう。その「 いのち」の働きの中に在ることが私たちにとって一番の安心である。

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