説教「権威」
2004年11月21日 丸尾俊介


   聖書   ルカによる福音書 20章1節〜8節

1ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、 祭司長や律法学者たちが、長老たちといっしょに近づいてきて、 2 言った。 「我々に言いなさい、何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を 与えたのは誰か。」 3 イエスはお答えになった。「では、私も一つ尋ねる からそれに答えなさい。 4 ヨハネの洗礼(バプテスマ)は、天からのもの だったか、それとも、人からのものだったか。」 5 彼らは相談した。「『天 からのものだ。』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言う だろう。 6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺す だろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」 7 そこで彼らは、 「どこからか、わからない」と答えた。 8 すると、イエスは言われた。「そ れなら、何の権威で、このようなことをするのか、私も言うまい。」

 ここに記されている物語は、昔起こった一事件のなりゆきとしては分かりや すいと思う。しかしきょうは、特に用いられている語句にも、もう少し注目し て読んでみたいし、なによりも現代の私たちに即してその意味を考えてみたい。
 まず一節前半から感ずることは、当時誰でもが当然のようにして集まり、礼 拝をしていた会堂に、イエスも気軽に出向き、いつしかそこで人々に教えるよ うな行為もしていたという事実である。厳密に言えば、ユダヤ教の会堂として、 人々に親しまれ、大勢の人々が日常的に集まっていたところなのだろう。イエ スも特定の宗教といった枠にとらわれず、自由に出席し、人々と共に礼拝をし ていたのだろう。その点、「一神教は排他的」といった先入観が根強く、その ことをことさらに強調し、多神教的な昔の日本を大事にし、愛国心を教育しよ う、などと宣伝するえらい人たちがたくさんいる今の日本は、どこかおかしい ように思えてならない。
 実ははここでイエスの行ったことを「教え」 「福音を告げ知らせ」という、のちの教会で用いられた一般的職務を表す語が用いられていることには注目しておきたい、教会の使命である「教える」「福音を告げ知らせる」という業は、他宗教とは全く次元の違う聖なる特別の秘義だなどと、教会も考えてはいなかったということが言えるだろう。事件はそういう宗教的な場をも自分の縄張り、勢力範囲としてとり仕切っていこうとする勢力がすでにあったということに起因する。それが、2節のイエスへの詰問となって現れる。今の日本も、そういう暴力団まがいの隠然たる力があちこちを支配しているらしいことを考えれば、この場の様子もよくわかる。ここで彼らはイエスに、「一体お前は誰の許可を受けてしゃべっているのか? 教師ずらして、いっかどの口をきく権利をオマエに許したことは無いぞ!」と迫った。今の私達にも暴力団のようなあからさまな姿ならよくわかるが、姿を隠した不気味な権力にはあまりよく気付かないことが多い。しかし、心の奥底にそれと同じような体質を持って何らかの権威にあこがれる私たちや世の中のあることも認めざるをえない。日本ではそれが正統主流の争いとなり、公認や免許、肩書きや地位、保証人や公的証明書の要求、オカミの優先やそれへの依存となり、その結果として私や個の軽視や制限が起こる。かなり変化したとはいえなお、民より公が頼りにされ、NGOなどは軽視される傾向も強い。また、自由な民間の運動体も公的根拠をもちたくなる。こうして何らかの権威に頼り、それを振りかざすことになってしまう。  しかしイエスはそういうこの世の権威に頼って生きはしない。また、そうい う何らかの力を必要とし、入手しようともしない。この世の論理からいえば、 全くの素手で、何の肩書きも力も華やかさも欲してはいない。それは見せかけ のこの世の権威ではなく、真の神の創造者・支配者であり、支えてでもあり、 赦すものでもある方への深い信頼があったからという他はない。
 かといってイエスはこの世の権威を振りかざす人たちを避け、また彼らと交 戦することもしない。対話できるものならしようとの志がある。3〜5節を読む と、それは明らかであろう。この世で対話・討論には損得や駆け引きが付き物 である。だから当時の権威をバックにした祭司長・学者・長老たちは、そのこ とを考え、あえてイエスと対論しようとはしない。イエスは、真理を追い求め る姿勢の欠如したこの場面で、力とか言葉遊びの優劣を争うようなことはしな い。だからこそ8節で、この対論を明確に断っている。
 イエスの真意は、あなたがたがよりどころにしている表面だけの権威なんか に頼らず、生きたひとりの人間として、真っ向から話そうということだろう。 議論に勝つことや、自らがバックとしている権威を誇ったりせず、それらの束 縛から離れて自分で考えてみようとの呼びかけでもあったのだろう。そして、 あまり根拠もない表面だけの支配力を脱し、またそれを利用して自らの欲得を 広げようとする彼らに、反省を促したと言ってもいい。
 実はこういう物語を語り伝えた個人個人も、また教会も、この世的権威に頼 りたいという欲望や誘惑の中にいたと思う。そのときこの物語は自らが、真の 権威のもとに立ち帰るよい機会として機能したと思う。そういう先輩たちの足 跡の集積として、この物語を現代にも生かしていきたいと思う。
 さてここで「権威」と訳された語は、新約聖書に多く用いられ、特にルカは、 好んで多用している。それは「権利」とも「力」とも訳されているが、同時に 人間に与えられた「自由」の内容と意味を兼ねそなえた言葉でもある。いわば 根源的で多様な神の働き、特にその力と柔軟さへの驚きを実感しつつ用いた用 語でもある。これあるがゆえに、今の弱い私達、誘惑に負けやすい私たちも、 さまざまな事態に直面しつつもあきらめず、なんとか安心して生きていくこと ができる。従って、「権威」は、何らかの力を表現しつつも、単なる人間的こ の世的力と共に、なおそこで高慢にもならず、それに振り回されもしない自由 −それこそ与えられた神の賜物とか恵みという他はないが−な働きをも含めら れていることを忘れてはならないし、このことになによりも私は感謝し、喜び を感じる。
 同じ「権威」という言葉を使っていても、祭司長・学者・長老の頼っていた 皮相な見せかけだけの力を指す場合もあれば、イエス自身がそれによって、生 き、示し、何の力もない私達にも希望を与える内実を示す場合もある。そのよ うな権威をこそ、聖書は証し、現代の私たちにもそれによって生きるよう奨め てくれているのであろう。

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