説教「安息日は人のため」
2005年4月24日 丸尾俊介


   聖書   マルコによる福音書 2章23節〜28節

23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っていかれると、弟子たちは歩きながら、 麦の穂を摘み始めた。 24 ファリサイ派の人々がイエスに、「ごらんなさい。 なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのか」といった。 25 イエス は言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったと きに何をしたか、一度も読んだことがないのか」 27 さらに言われた。「安息 日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。28 だから、 人の子は安息日の主でもある。」(一部省略)

 人間誰しも個人的な特徴を持ち、自覚的にせよ、あるいは無自覚的にせよそ れを慣習化していることが多い。それは自分にとっては当然であり、あるとき は信念であっても、他人から見れば、こだわりにも見えるし、逆に尊敬や感心 の対象になることもある。お互いにそこまで細かく厳密にこだわらなくても、 もっと気楽に過ごせたらいいなと思うことは多い。人が集団を作ると、それが 家族であれ民族であれ、あるいはまた国家であっても、そういうことが当然起 こる。それを「偏り」と見、長所と考える見方もあるだろうが、いつしか特に そのような「かたち」にこだわりを生ずるような傾向になることも多い。今特 に、現代の若者には日本を愛する心がない、それは戦後の個人優先思想の教育 や、そういう点を強調した教科書に原因があるといった声が特に大きくなり、 逆に偏った「愛国心」また排外的傾向を帯びたナショナリズムが日本人全体を 覆うようなムードが強くなってぃる。そして多様性や個性を悪と公言する人さ え現れつつある。
 以上のようなきわめて現代的課題を考えるのに、聖書の「安息日に関する律 法」をめぐるいくつかの記述やイエスの言葉や行為は、深い示唆を与えてくれ る。
 安息日に関する律法は、その背景にある人々の生活にも、その後の教会の働 きや、また一般の歴史にもさまざまの影響を及ぼしてきたが、ここでは、週に 一度の休日(安息日・日曜日)に関することにしぼって、考えることにしよう。
 日・月・年などは、天体の周期に連動しているが、暦の中で週だけはそれと 関係がない。しかし、人の生活とは密着しており、7日という周期も自然に思 える。誰が、いつそのような制度を作ったのかさえ、よくは分からない。しか し、聖書はそれのかなりはっきりした根拠を語っている。聖書の冒頭にある創 世記の物語にすでにそのことが明記されていることからも、それが彼らに、い かに大切なものであったかがよく分かる。つまり、安息日の存在は、神の聖な る働きと深くかかわる日として受けとめられ、人間の生活が神意と深く結びつ いているという信仰の表れとして受け継いできた歴史の集積また大切な伝統で あったことが分かる。その物語が生まれるよりはるかに昔、人間の守るべき大 切な戒め十項目(モーセの十戒)が作られ、その中にかなり細かく安息日の規 定が描かれている。そこから聖書は、人間にとって仕事をするのと同様に、休 むことをいかに重視していたかがよくわかる。その背後には、人間の働きこそ が生活や世の中を良くすると考え、その成果を誇り絶対化するより、本来仕事 は神が命じ期待し、それを行う能力と場を与えてくださったとの謙遜な信仰が あったものと思う。そしてまた安息日律法には、よく働いた者、成果を上げた 者、地位の高い者は休んでいいが、それ以外の人は休まずに懸命に働きなさい などという思想もないことに注目したい。だから律法は、息子や娘も、奴隷や 他国人も休めと規定されているし、さらに家畜も休むのが当然だと考えている。 全く理想的な共生・共栄の考えで貫かれている。
 ところがそれがいったん「律法」という形で定着し、時を経ると、ある種の 強制を伴う規律・秩序へと質を変えていくことが多い。そしてむしろ「休む」 ことで神への信心深さを表すことができると考えたり、休まぬやつは神意に反 するものとして排除し処罰するようなことにまでいつしかなってしまうことさ え起こる。そして実際に人々が休んでいるかどうかを監視したり、密告したり、 裁いたりする機関までできてしまう。そして「休むことにならない動き」とは どんなことかまで細かく規定が作られ、一時は安息日に対してだけでも200 以上の禁止項目ができたともいわれている。農に関して言えば、種まきとか刈 り入れ、収穫や製粉することも安息日の禁止事項であったという。また、何歩 以上歩いたらそれは休みではないと認定されるなどという笑い話のようなこと まで真面目に規定されていたともいう。細かい規定に振り回されて、事柄の本 来の意味をいつしかすっかり取り違え、人を自由に解放し、共生へと促す意味 を持っていた安息日律法が、逆に個人を縛り、人間どうしが監視し差別し反目 し合う原因を作ることにさえなってしまった。
 そういうことがまかり通っている社会のなかで、イエスが「空の鳥を見よ。 野の草に学べ」と話したことの深い意味を考えざるを得ない。空の鳥や野の花 は、自身の知恵と技術、財や地位によって、他者を排除したり、あるものを独 占したりはしない。人の目からどう見えようと、彼らは、浄・不浄とか、善と 悪といった基準でものを見ることがない。与えられた環境や条件をそのまま受 容し、それを前提に、その枠内で、自分が今できることを可能な範囲でそれぞ れ黙々と続けている。イエスはそういう姿勢が、人間の栄華の極みであるソロ モンの華麗さよりもはるかに勝っていると言われた。そういえば、すでにイエ スより遥か以前に作られた律法の中にもきわめて人間的な規定がすでに書かれ ていたことも重要である。
 安息日律法に関しては、どんな忙しいときでも、安息日には休まねばならな いといった記述がある(出エジプト34:21)。この「ねばならない」は、 単なる人間の都合や民族統治の都合のために決めたというより、それこそ人の 知恵や学問を超えた神の意志だとの意味があり、信仰があり、共生への思いや りが働いている言葉と言って良い。
 また申命記23:25には「隣人のブドウ畑に入り、思う存分満足するまで 食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入り、手で穂を摘んで もよいが、カマを使ってはならない」という言葉がある。どんな社会にもどん な人にも貧しくて、その日食べる物に欠乏することが起こりうるが、しかし律 法はそのような貧しい人への具体的な配慮を持っている。食への満足が卑しい ことではなく、人間として、食は当然・必須のことだとのやさしい現実的な見 方が生きている。何らかの力で食を取り合うことや、不公平で無理な分配はよ くないとの思いもあって、それが守られるようにと願って作られた規定であろ う。つい金持ちが力を持ち、幅を利かせやすい現場への現実的対処も視野に入 れた極めて進んだ規定と言える。しかしどんな法も悪用する人が居る。それは 人の自由さにもかかわり、機械ではない人間の特徴ともいえる。つまり、あれ これの方法の中から考えて選び、実行できる人間としての現状認識・自覚があ る。昔の歴史を語る際、条文があればそれが守られていたよき時代だと考える 人もいるが、実際の人間社会はそんなに理想的ではない。そんな人間の姿を知 っているからこそ、食べてもよいが籠に入れてはならないのだという。主の祈 りの「日ごとの糧」もそのような実際を踏まえての具体的人間を知り尽くした 祈りであると言えよう。また、手で摘んでもよいがカマを使ってはならないと 言われている。貧しい人は食べてもよいという言葉に甘えて度を過ごす、ある いは商売にまでする、あくまで欲望の深い人間の本性というものがある。この ようにして、社会のバランスを保ち、人々の精神も安らかにし、毎日困る人が ないようにとの思いやりが働いていたといってよい。
 その点、鳥や動物は食べ物に関してその日暮らしで、明日の分まで蓄えるこ とがない。律法の精神を自然に活かしているようにも思える。彼らは、ポケッ トも袋も、機械も持っていないが、それで十分に生きているともいえる。りす は冬の食料を蓄え用意する。しかしそれは栗・栃・楢・ブナの実を調整しまた りすの数も程よく維持することにもなり、生態系のバランスを崩さない巧妙な 仕組みにもなっているといわれる。
 このように考えてくると、旧約聖書の律法は多少のユーモアさえ秘めた具体 性と柔軟さを持っていることが良く分かる。四角四面の日本の法意識や運用と はどこか違う。面子を立て、恩を売り、コネや権力で物事を解決することがな い。そして神の名において堂々と条文化している。つまり、神の力と働きと愛 が全地・全社会・全歴史を覆っているのだから、当然それへの応答としての人 の姿勢と生活とがある、それこそ聖書を支える、神の常に新しい働きに連動す る信仰の表れであろう。
 ここまで考えてくれば、本日とりあげたこの箇所が何を意味するかがよくわ かるだろう。些事にとらわれつつ律法の番人だと自負するファリサイ人の頑な さ、その表面的な真面目さの裏に、人間性の欠如した冷たい心と態度が見える。 ここに律法の原理主義化が起こっている。原理主義は、現在の世界を混乱と争 いにおとしいれている落し穴でもある。イスラムでもキリスト教でも、その他 の思想や主義でも、社会制度や法律の運用においても、すべて原理主義化の危 険を伴う。人々とくに指導的立場にある方たちが、それに気付いていないこと が大きな問題を孕む。一方、社会の機構・制度・組織に組み込まれている人々 が、法の条文に記載され、上司の命令でさえあれば、まるで機械のように命令 に忠実に従い、それで給料をもらって生きることが普通だと考え、その結果ど んな理不尽なことをしてしまっているかという事実の重さ・醜さにも私たちは 今直面している。
 それに対してイエスの反論は、言葉上の条文上の争いではなくて、他の重要 な視点を示す。教会は、具体的社会と時代のなかで、こういうイエスの考えや 姿勢に常に新しく学びつつ、現実に対処することができる。それこそが生きた 教会であろう。でないと原理主義的腐敗・堕落・権力化の危機にさらされる。
 27節以降はイエスの単純明快な考えを示す言葉である。この一句を伝えた だけでも教会は存在の意味があり、聖書はすばらしい。律法はあくまで人の幸 い・自由・交わりの深化・生きがいをより一層深めるための相対的規定である。 しかしそれが、固定化され形式化されると、逆に人の自由を奪い、人に上下・ 貧富を作ってしまう。そしてあまり根拠のない善悪の基準を絶対化し固定化し てしまう。それをもとにいつしか人を評価し、徒党を組み、弱者をいじめ断罪 することにもなる。逆にあまり根拠もなく人を表彰したりすることも起こる。 その一例だろうか、一人を殺せば犯罪だが、戦争では百人を殺すことで勲章を 貰えるとか、人を殺しても靖国神社に祭ってあげるというような感じが今も残 っている。
 「安息日は人のため」と、イエスは言う。この「人」という語には何の条件 もついてはいないことに注目したい。善良な仲間・同じ民族・信仰の友人など という規定はない。神のため何かした人とも言わない。人の営みより、神にか かわる仕事の方が聖であり、そんな人のため安息日があるとも言っていない。 人が人であり続けるために、それを妨げる要素を取り除いていく。こうして人 は、神の前に人としてあり続ける。何らかの規定に合うように無理をして生き ていくというのではなく、神意に常に立ち返り、それにふさわしい道を考え探 り選び実行する。完全な行為と生活ではなくても、そこに神と相対して生きる 人の尊い内実が備わってくる。そしてイエスが「人間の尊厳」をこれほどまで 素朴に簡潔に言い表したことに感銘を受ける。おそらくそういう事実への感謝 と喜びを実感した人たちによって、このイエスの言葉が伝えられ、また告白さ れたに違いない。イエスは実社会で、そういう生き方を示し、歩み、教えた。 それが、昔のことにとどまらないで、今も、力を持って私たちに語りかけてい る。その事実の前では、イエスがよみがえって共にいてくださると告白する他 はない。

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