説教 『天と地の呼応』
ルカによる福音書 2:8〜20
 2005年12月25日 下落合教会クリスマス礼拝にて 丸尾俊介

 この年も終わろうとしている。しかし、一年の出来事や人間のやってきたことは神の意志に沿っていたとはどうしても思えないことも多い。その人間の一員として罪深さを告白しながらこの時を過ごさざるを得ない。
 しかし、それにもかかわらず、福音を証するクリスマスを平穏に迎えられることに率直な喜びを感じ、感謝の思いでいっぱいである。
 さて、ルカが伝えてくれたクリスマス物語は、過去の一事件の記録ではなく、自分たちの群れや教会の長い生活体験と、迷いつつも深めていった信仰に基づくものだからこそ時代を超えて多くの人に共感を呼びおこしてきた。今日は、その証言の中から特に今感ずることを三つ申し上げたいと思う。
 まず第一。救いのしるしがそこにあるとの明言である。救いとは、神が我らとともにおられるという事実から生まれる安心と喜びであろう。私たちは、そういう救いはきっと美しい華やかなもの、人間を圧倒するような何か大きな力、例えば優れた地位とか富とか知識とか技術と関係があり、あるいは人間が感動してやまぬ美談を伴う話だろうと考えやすい。しかしここでは、そのしるしは「布にくるまって、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」だという。それは普通の人間の姿よりさらに貧しく惨めであり、人間の弱さ、政治や社会の愚かさと限界をも示すが、ある意味ではまぎれもない人間の歴史と社会の姿でもあり、それが今も至るところに日常化していると言っても良い。しかもそれを克服する人類の力も効果的な方策も示されていない。
 しかしそこに神の働きがあるというのだ。そうあって欲しい、どこかにそういう世界があるかもしれないと言うのではない。いわば人が求めるより先に、私たちの足もとに救いがあるというのだ。それはこの世が作りだし、評価することではないが、弟子たちと教会が彼らの体験としてどうしても告白せざるを得なかった事柄であった。つまり彼らはそういう日常にちゃんとした意味を見いだし、そのことによって困難からなんとか立ち直り、新しい出発をしつつひとつの歴史を作っていったのだ。それは誰の目にも見えるような派手さもなく、すべての人を納得させるような論理も持たない。じつはあのイエスの言葉と業、その生涯と存在、そしてその働きが彼の死をもって世から消えたのではなく、その後の弟子たちや教会の働きの中で、現実に引き継がれ、展開してきたという事実をもとに語り伝えられてきた物語であったのだ。このメッセージは、何かにつけ大きさ・強さ・多さばかりに心惹かれる私たちへの警告でもあるだろう。
 第二に、天と地を覆う賛歌に注目したい(14)。そこでは「天の栄光」と「地の平和」が響き合っている。言い換えれば、「神の働き」と「人の営み」とが、別のものでありながらも深く呼び合っているということである。この賛歌の前半はこのあとで私たちが歌うグロリア、イン、エクセルシス、デオというラテン語で広く長く歌いつがれてきた。ここでは「あれ」と訳してはいるが、実は、原典にはこの意味に相当する単語がない。したがって、この句全体は、こうあればいいのになぁという願望や、誰か何らかの力で実現せよという命令ではないと思う。聖書の慣用的語法によれば、むしろ「ある」とあえて訳しても良いのではないだろうか。つまり、神の栄光、言い換えれば、神の存在のたしかさ、働きの重さと、それを支えにした人の営み、地の平和への努力は現に実感している信仰的事実そのものの表現だといってよい。そしてこの両者は密接に結び合い応答し合っている。つまり、神が神であるゆえにこそ人は人であり得る。したがって人の知や力で地を天にしようとか、またそれができるなどと考えるのは不遜であり、被造からの逸脱であろう。また、神は孤高を楽しまず、人に働きかける。そこに人の自由さが生まれ、そこから人間らしさが深まってくる。そして個の使命を正直に生き、特に不安を乗り越え、力にとらわれることからも解放される。従って、地の働き・人の営みを、天の働きと栄光の中で捉えなおすことが大切になってくる。人間はその事実を受け止め、天の働きにふさわしくあろうと努め、言葉と行為で応答し、賛美し、証する。またそのことを感じとり、学び、語ることもできる。そういうものたちがこうして集まって、共に祈り学び賛美する。しかし、ときに私たちは神の働きを人の営みと無関係だと考え、宗教的陶酔に偏り、人の業を無価値・不必要だと考えてしまう過ちを起こすことがある。また逆に、この世はすべて人の知と力によってなんとでもできると考え、神の働きや栄光に目を開きえない愚かさに陥ることもある。天地の呼応を歌うこの賛歌はとても意味が深いと言える。
 現在、この世界をかげで支配しているらしいイスラムやキリスト教の原理主義、また日本を神聖な国だと考える先入観などは、自分の立場や考えだけをまるで神の権威であるかのようにすり替え、共生すべき他者を敵視するなど、本日の第一・第二の両メッセージとは全く反対の極に立つ姿の一例だと思う。また、人間の知・富・技こそすべての源泉であるかのように考えてしまう世俗万能志向と大勢順応傾向などについても同じことが言えるだろう。
 第三に考えておきたいことは、羊飼いが「不思議に思った」(18)と率直に伝えていること、また、すべての成り行きの意味が分かりにくいマリアがともかく起こった出来事を「心におさめて、思いめぐらしていた」(19)ことである。人間は常にすべてが分かって生きているのではない。信仰とは一点の曇りもない純粋なものでもない。人の日々は山あり谷あり、迷いや苦しみあり、逆にまたささやかでも小さな喜びに心踊ることもある。それは人間の不備や弱さというより、被造としての正直な姿であろう。だからこそ早く何らかの明確な結論を得ようと焦ったり、それができないからといって落ち込んだりする。あの救いのしるしもはっきり見えず、天地呼応の事実さえもありえないことのように受け取ってしまうこともある。しかし、自信が今なくても、出会っている事実から目を離さず、羊飼いやマリアのように「不思議に思い」「心におさめ」「思いめぐらし」続けることの大切さを、このクリスマス物語は教えてくれる。じつは弟子たちも、初めの教会の人たちもそうだったのだ。その長く深い生の中で、このような物語を語り継いでいたのだ。しかしそのような迷いや弱さにもかかわらず、結局彼らは「神をあがめ、賛美し」(20)ながら、自分の日常を送らざるを得なくなった。こうして、神ではありえない私たちも神の働きの中で日々を過ごすことができる。聖書は一時の感激や特別の人だけの経験からでなく、ごく普通に日常を生きる人々の暮らしの積み重ねによって一つ一つの言葉や物語を生み出し、それに何らかの共感を持った人たちがそれを今日まで伝えてきた。私たちは今、そのメッセージを耳にし、多くのことを「不思議に思い」ながらもそれを「心におさめ」つつ、そこに秘められた大きな意味と価値に目を開ける日のあることを信じ、希望を持って新たな出発をしたいと思う。

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