説教 「すがりつくのはよしなさい」
2006年4月23日 丸尾俊介
 
ヨハネによる福音書20:1〜18
  1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。  2 そこで、シモン・ペトロのところへ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走っていって彼らに告げた。  「主が墓からとり去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」 3 そこでペトロともう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペトロより早く走って先に墓についた。 5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし彼は中には入らなかった。 6 続いてシモンペトロも着いた。 彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。 9 イエスは必ず死者 の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10 それからこの弟子たちは家に帰っていった。    11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓のなかを見ると、12 イエスの遺体の置いてあった所に白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13 天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取りさられました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません」 14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15 イエスは言われた「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちの所へ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなたがたの神である方の所へわたしは上る』と。」 18 マグダラのマリアは弟子たちの所へ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また。主から言われたことを伝えた。  
 
 キリスト教会は、イエスの復活が直接の動機になってその働きを始めた。だから教会は、それまで安息日(土曜日)にしていた礼拝を復活日である日曜日に行うようになった。つまり礼拝は、復活の記念であり、想起であり、自分もまた復活の働きにあずかる喜びと希望の機会でもあった。
 聖書はその教会の中で長い年月をかけて伝承されつつ、ごく自然に、口伝から文章へと進んだ結果、いつしか生まれたものである。当然ながら、聖書は復活を内容とし、主題とし、動機とし、生命として証している。
 だから、すべての福音書は、復活の物語を持ち、多くのの手紙は、復活を信仰の源泉として証している。ところで《復活》とはいったいどんな現象・変化・内容を言い表しているのだろうか? 当然のように語られているのに、私たちはその中身をそんなに明確に把握してはいないし、また論理的に理解し、説明することすらおぼつかない。でも何かしら超人間的な神聖な奇跡的できごとのように思い込んでいないだろうか。そこでまず注意しておきたいのは、復活は私たちと無関係に、私たちの生とは別の世界で昔起こったことと考えてしまいそうになる危険である。言い換えると、イエスは神の子だし、人間を超えるような方だから復活して当然であっても、俗人である私たちにそんなことは起こることはないと普通考えている。また、いつかは必ず死ななければならない肉体に戻ることを復活だとも考えていない。しかし聖書は、イエスに出会うことによって、私たちのほうが新しい生へと方向転換し、希望を与えられて困難のひとつひとつを克服していけるという事実と経験をも《復活》と言っている。それは現象というより、やはり《信仰》というべき性格のものだろう。
 たとえば万物が甦るようにさえ見える春のシーズンにイースターが設定されているのも、象徴的だ。春はすべての生が甦みがえったかのように新しい生命を謳歌している。そしてそれが私たちにもよく見える。見えないもの、あるいは人間の頭や言葉で証明できないものは存在しないかのように思い込みがちだが、《生命》などというものは、明らかに、見ることもさわることも証明することも難しいが、事実として働いている。自分のようなものにも、その生命が与えられているのだから、どんな状況からでも新しい出発は可能なのだ。その事実を知り、受け入れ、活用し、他者と分かちあうとき、そこに《復活信仰》というものが確かに働いているに違いない。それがどういう過程を持つか、内容を表すかは、個々人別々のケースで異なっている。
 新約聖書が四つの福音書や使徒言行録、また手紙などでさまざまの表現をもって、《復活》を語っているのは、おそらくそういう事実に起因しているのだろう。したがって《復活信仰》と言っても、多様であり、その証言も多彩になってしまう。しかしそのような信仰のおかげで自らの中に力が湧いてくることもあり、他者の人格の尊厳を受け入れることもできるし、同時に人は決して完全でもないこと、完全になろうとしなくてもいいこと、型どおりでなければ人間ではないなどと考える必要もないことがはっきりわかる。。
 さて以上のような消息をヨハネ20:1〜18から学んでみたいと思う。イエスの墓にいつたマリアはイエスの体が「どこにくてもいいこと、型どおりでなければ人間ではないなどと考える必要もないことがはっきりわかる。置かれているのか」という問いにとらわれて、2,13,15に3回もそのことを公言している。つまり、マリアがなによりも問題にし、愛着を感じ、こだわっているのは「目に見えるイエス」である。それは一人の人間として当然と言えば当然のことで、殊にマリアは今いなくなったイエスの体を大事にし、守り、追悼し、記念することでイエスがわたしにとってどんな大きな存在であったかをずっと確かめていこうと考えていたのだろう。マリアはイエスの体を引き取り、自分の責任でそれを守ろうとしていた。そうしてあげたいし、それこそが、イエスへの最大の仕えかたであると信じていたと思う。それはマリアとして決して間違いではないと思うし、かえってそれによってふマリアは生きがいを感じ喜びを味わうこともできただろう。しかしそのことはイエスをこの自分が面倒を見、支配し、そのことで満足を得ようとする危険さの芽を秘めていたかもしれない。でも、この世で最大の屈辱を受け、十字架にかけられたイエスが自分も含めた多くの人たちを苦しみから救い出してくれたのかもしれないとの微かな願いに思いを託し、新しい姿勢へと自分を育てていこうとしてイエスを身近に思い浮かべようとしていたとも考えられる。 
 しかし私たちには模範のように見えるマリアへ語られた復活のイエスの言葉は「わたしにすがりつくことはよしなさい」 (17) であった。つまり、過去の目に見える行動・耳に聞こえる言葉に頼る思いだけで、イエスを思い続けるなというのだ。そこには甦りを現象化し、また神秘化・固定化し、力強い栄光に満ちたイエスだけにこだわるなという意味も込められているだろう。むしろそのような思い込みから脱して、自分自身が、神から直接に新しく生きていくことのできる生命を与えられているという事実に思いを致し、新しい出発をしなさい、というメッセージではないだろうか。そして事実そのような信仰を受け入れることができたマリアだからこそ、このようなイエスの言葉がいつも聞こえていたのではないだろうか。
 そういえばそのイエスの呼びかけに気付くとき、マリアは不思議に、「振り向いて」 (14,16)いる。その用語は、もちろん体の向きを変える、顔の向きを変える、という動作をも表すが、聖書ではこの用語に、さらに深い意味を込めて用いている。それは心の動きをも含めた全人間の方向転換を示唆するようにも用いられており、ときに回心・悔い改め・心を入れ替える、というような意味で使われてもいる。そのことから考えても、一人一人が心を含めた生の方向転換をすることこそ復活信仰の内実なのであろう。死んだイエスがまた元の人間の体(=いつかはまた死ぬ)に、形として戻ることが復活ではない。イエスが、人間の死にとらわれず、神の配慮と守りを信じ、それに従順であったこと自体が、復活の大切な内容であるが、それだけではない。むしろ、そういう復活のイエスに出会って、自分の中にも復活の力が働いていると信じていくことも含めて、聖書は《復活の信仰》を語っているといってよいだろう。誰よりも復活信仰を中心に据えたパウロという伝道者は、聖書の中にもたくさんの手紙を書き残しているが、彼自身はあのイエスが十字架にかけられた場面に立ち会ってもいないし、それから3日目に起こったイエスの復活にも出会っていない。しかし、頑固に自己正当化していたパウロが、悔い改めてキリストイエスの使徒となったとき、彼は「復活のイエスに出会った」と告白し、そこから従来とは全く異なった新しいキリスト者としての生が始まっていく。
  確かに論理や理性や人間の言葉で「復活」を語るのは難しい。そのような「復活」を語っている聖書を解するのもまた、至難の業だともいえる。だから「聖書の言葉を理解していない」 (9) という一句は、教会のすべての人がいつの時代にも厳しく反省させられる言葉の一つだったのだろう。もちろん、私たちも聖書を理解しているとはいえない。しかし、そういうものたちが《復活信仰》を語り伝え、また今も伝えているという事実こそが、なによりも主が復活して私たちの中に働いているという事実の証ではないだろうか。

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