説教 「太陽を昇らせ、雨を降らせる」
2006年3月5日 下落合教会創立55周年記念礼拝にて 丸尾俊介
     
マタイによる福音書5:43〜48
  43 「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と、命じられている。 44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45 あなたがたの、父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 (46〜47は省略)  48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。」   
 
 イエスのこの世での生活は決して長くはなかった。しかし、色々な業がかなり詳しく語り伝えられているし、語られた言葉も録音したように型通りではないが、時々の状況に応じ、また多様な考えを持つ多くの人の生活と口を通して自然に残されてきたものだと思う。本日もその言葉の一つを改めて読み、味わってみたいと思う。
 ここに語られている事柄は、極めて分かりやすい。しかし語られた状況、背景になっている社会や時代、また人々の暮らしや考えも、可能な限り考慮しつつ読む方が良いだろう。言い換えれば、具体的状況と無関係な抽象的言葉ではないし、まして、単なる誰かの創作や願望の現れでもない。
 43節は、当時の一般的な人々の暮らしの底にある考えを表しているのだろう。そこで「隣人」と言うのは、主として近親・同族・仲間を表す言葉、その人たちが愛しあうのは、人格を尊重しての愛というよりも、むしろ無意識的生活の中で行う慣習のようなものであり、特別な儀礼や法規を指しているわけではない。しかしいつしかそれも、神が求める律法であるかのように拡大し、進化し、権威さえ持つに至り、そうすることが正しく、また信仰深いことと思い込んでしまうくらい日常化していたのだろう。そのうちに、隣人を愛しているかどうかを判定するような専門家や基準まで生まれ、それに違反したものへの罰則や非難さえも行われるようになる。そして、仲間うちの愛は当然敵への反感・排除へと容易に進む。人間社会では、この現実を利用する為政者が多く生まれ、国家や民族の結束への早道は、なによりも「敵を造る」ことにもなる。
 近現代の政治指導者も進んでこの方法を用いるが、それは聖書時代にもすでに存在していたこと。現代では「敵が攻めてくる」 「テロに狙われている」と言った宣伝で、自国民をいつのまにか被害者的恐怖に陥しいれ、自らの政治的無能や誤りを巧みにかわす為政者があまりにも多すぎる。日本がかつて行った戦争も、そのような理由で正当化されたし、戦後60年を経て、またまたこのような宣伝をする人が増え、その考えに左右される人々が多くなっていることは注意せねばならない。  このように「隣人を愛する」優しい人間性も「敵を憎む」恐ろしい事実と簡単に結びつくことの危険は、十分に考えておく必要があろう。そして、ここ43節でも、こので両句が結びついている。私たちはこれを旧約聖書の句かと思いやすいが、実は旧約のどこにも両句の結合はない。ここでは一般の人々の中での常識的・無意識的言葉として、イエスが引き合いに出したのだと思う。そして、両句を結合させなかった旧約聖書の筋の通った姿勢も深く注目しておく必要があろう。すでに両句が結合することの危険を、しかもそれが神の意志とは関係のない、人間の勝手な思いから生まれる考えだという事実をよく知っていたのだろう。そしてイエスも、民衆のなかに起こりやすいこの生活態度の危険性を認識していたものと思う。
 だからこそイエスは毅然と「しかし、わたしは、言っておく」 (44)と、上記のような常識的思考や生活態度を厳しく戒めることになる。ここでマタイ5〜8章に集められている、いわゆる「山上の垂訓」が、しばしばこのような形をとっていることに重大な意味が秘められていることを忘れてはならないだろう。そして、その語に続き、望ましい人のあり方として「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」とまで言う。
 ここでまず考えておきたいことは、イエスにとって「隣人」とは、自然にいつしか「在る」者ではなく、自らがそう「なる」よう志し、実行することによっていつしか実現する人間関係だと考えていた点である (このことについては、ルカ10:25以下の善きサマリア人の喩えがはっきり教えてくれている)。
 そしてまた、イエスは多くの人と同じように行うことを信仰の姿だなどとは考えていない。むしろ気づかないような日常的ありようの中に潜む重大な事柄に心を注ぐ。イエス自身が、そんな姿勢を続け、そのような発言をすれば殺されるかもしれないことをあえて承知しつつも、世の大勢に迎合しなかったことの中に、信仰の一面を見る思いがする。信仰とは決して人を一定の型にはめることではなく、各人・各様に与えられている賜物に即して自らの道を進む自由さをもつといってよい。
 だから「敵を愛せ」という勧めも、単なる行動の指示ではなく、理不尽な敵を放置せよという意味でもない。まずは人を「隣人」と「敵」に分けることへの警告であり、反対なのだろう。愛する限り、相手は敵ではありえないということであろうか。たとえ自分を迫害している相手であっても、自分と同じ造られた人間の一人に変わりないという共感がある。しかし、私たち人間にとってこれをそのまま実践することは至難の業である。いったいそういう姿勢をどこから身に付けることができるのだろうか。
 そのヒントというか答えを、わたしは、45節以下に見いだす。その際まず「天の父の子となるため敵を愛せよ」と、言われているように読める点を考えてみたい。「天の父の子となるため」と言うのは、条件ではなく、「実質的な深い関係にある」というありのままの事実を指しており、そのこと受容するなら「敵を愛する」のはむしろ人として当然のことだという考え方が示されているように思う。
 そしてそのことのなによりも明白な誰も疑えない事実として、すべての人に(人々は現に自他を善人・悪人などと区別し、差別し、その考えや傾向に引きずられているが)太陽を昇らせ、雨を降らせる創造の業をあげている。確かに人間は、お互いを批判し、価値に軽重をつけ、時にはある人たちを非人とさげすみ、そのことに安住してなんとか日々を過ごしているが、神の目から見れば人の間にそんな軽重はなく、すべての人の存在を無条件に肯定している。そしてそのような神意に触れるとき、私たちは自らの非力や失敗から立ち直る道を見いだし、、諦めと失望とから解放される道へと導かれる。またいたずらに他人を恐れ、嫌い、孤立しやすい傾向に歯止めがかかる。それこそ信仰者の隠れた姿勢であろう。
 今日人類がいたずらに異民族・他国人、異なった考えの人を排除する傾向が強くなっていることは、残念ながら認めざるを得ないであろう。にもかかわらず現代はそういう自分たちの姿をかえりみることもなく、様々な力(武力・経済力・勝ち組願望・大勢迎合)によって異者を退けつつある。そしてむしろそれこそ、先進的だとの考え方さえ支配的になりつつあるようだ。2000年も前に、聖書が明確に語っていた言葉を、今に至るも人々の多くは聞き入れようともせず、混乱は深まるばかりである。
 今日耳にしている聖句は、人間の欲や都合また、強弱や時代の傾向によってではなく、根源的な創造者の意志と働きから、自らと世界のありようを考え直そうとしていた先輩たちを支え、その発想や現実生活を導く力そのものであったのだろう。教会やキリスト者とて、そういうこの世の大勢に左右されやすい。しかしそのとき、教会の姿勢を正しキリスト者の生きざまを考え直す言葉の一つとして、この句も有効に働いていたと言ってよいだろう。つまり聖書は、すべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせる方の働きの中に自分たちがいるのに、その働きを忘れ、また、その働きの事実から離れて日々を過ごしていてよいのですか?と、厳しくまた優しく問いかけているのだ。
 さて今日はこの下落合教会の創立55周年を覚えて礼拝を行っている。55年間、多くの方々の多様な信仰の働き、献身的奉仕、またそれぞれの賜物を生かした協力と支えによって歩みえたことを忘れてはならない。この教会は、特に英雄的力ある人の指導によって続いてきたのではない。むしろ、一見、あいまいな姿勢しかもてず、明確な方向性も見いだせないでいつのまにか時を重ね、時代と共に揺れていたようにも見えなくはない。それはこの教会の弱さではなく、イエスがそうであったように、この世と労苦を共にしようとする姿勢の表れだったと言ってよい。この世が迷い苦しめば、教会も迷いに苦しんできた。したがって教会の過去を恥じることもないし、無力や弱さを嘆くこともない。むしろ世から孤立した独善的な教会でなかったことを感謝したい。その間に味わった心配や不安も、成長する命が静かに熟成することの印であったと言ってもよいだろう。それはやはり真に深いところで、すべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせる方の働きを信じていたからである。迷っても、帰りつくところがあり、時がある。
 新約聖書が「自然に機械的に流れる時」と共に 「神の意志と働きのもとにある時」が進みつつあることを洞察し、わざわざこの両者に異なった単語を用いて言い表していることに注目せざるを得ない。両者は対立的にお互いを排除しないし、全く無関係でもない。それは人間が現実に前者の日々を過ごしつつ、実はその根源に後者の働きを見いだし、自覚し、表現しつつ、単なる知識や学問としてではなく、前者の時に縛られることもなく、後者のゆえに無理をしないでもよい日常生活を過ごせるようになったことを示すものであろう。この教会の先輩たちも、その事実を感知し、感謝し、それを証し、賛美し、それに、ふさわしい日常生活を送ろうとしてきた。今後もまたこの二つの時の中で、私たちの日々を送っていけることは、この上ない幸と言えるだろう。
 さてこの箇所の最後に語られる。48節の句は難解なので、一言付け加えておきたい。そこにはこう勧められている「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。完全などということは私たち俗人・凡人には無理なことだと思う。しかしここでいう「完全」は、むしろ成人しつつある、円熟味を増しているくらいの意味で、同じ箇所をルカ6:36によれば、「憐れみ深い」と、訳されている。憐れみとは、自分には欠けもなく、相手を後れた者と見る態度を示すようにも思えるが、実は何の働きもないにもかかわらず、太陽と雨に象徴されるような愛を与えられていることへの感謝と謙遜な思いから生まれる人の姿を言い表していると言ってよい。したがって48節は、完璧な人間になろうという勧めというより、自らの生活と思いを改めて吟味しつつ、常に支えられている大きな力の働きの中へとたち戻ろうとの呼びかけだと思う。
 聖書の教えは単なる論理や美しい言葉によって価値があるのではなく、現実的な普通の暮らしの集積としての歴史に基づくものでもある。現にモーセの十戒は、その前文にあるとおり、出エジプトというまぎれもない歴史的経験から生まれたものであり、預言書は、現実の醜い。政治的・社会的・宗教的状況のなかで「神の働きの時」を知った人たちの働きと言葉を動機とし内容としている。新約聖書は、イエスと弟子たちの体験した事件や言葉を、ごく普通の暮らしの中で伝承しつつ成立したものでもある。人間の歴史には恥ずべき面があまりにも多い。しかしその中に働く神意を見いだし、それを自分の言葉で表現し、その働きに多様な形で応えていくことによって、人間は歴史を活用することができる。
 私たち下落合教会の小さな歩みも、深く大きな業にかかわっていたことに少しでも気づき、そこからまた新しい出発をしていくことによって、必ずや未来への希望へと常に導かれることであろう。

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